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麦飯男爵と呼ばれた高木兼寛│海軍の脚気を麦飯とカレーで治した偉人

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「麦飯男爵」と呼ばれる高木兼寛(たかき かねひろ)は、医学界に多大な貢献をした偉人です。

高木兼寛は、麦飯とカレーで多くの命を救い、「日本疫学の父」、「ビタミンの父」ともいわれ、功績は海外でも高い評価を得ています。

どのような人物なのか、詳しく紹介します。

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目次

高木兼寛(たかきかねひろ)は明治時代に日本海軍の軍医として活躍

高木兼寛は江戸末期の1849年に現・宮崎市高岡町穆佐に生まれました。
武士の子として、学問や剣術を学びながら、父の副業である大工仕事も熱心に手伝いました。

その後、医学の道を志し、17歳になると鹿児島に出て、学びはじめます。1868(明治元)年には戊辰戦争が始まり、薩摩藩九番隊付として上京、帰郷後に英語と医学を学びます。海軍省出仕を経て3年後の1875(明治8)年、ロンドンの病院医学校に留学し、「臨床医学」や「看護婦養成」などを学びます。

同校を首席で卒業、帰国後、東京海軍病院長に任ぜられ、軍医として活躍します。

高木兼寛は海軍の「脚気」を麦飯とカレーで治した

高木兼寛は、海軍軍医大監として、当時流行していた脚気について調査。
脚気とは下肢のしびれやマヒを引き起こし、最悪死亡することもあるこわい病気です。

英国海軍と比べて、たんぱく質の少ない白米中心の食事がその原因と考えます。

太平洋横断の練習航海中の軍艦で、376名の乗組員中、169名の重症脚気患者(25名死亡)が発生しました。ハワイ停泊中に、食事を米食から肉・野菜に変更したところ患者は快方に向かいました。

兼寛は、脚気栄養説を確信。練習艦「筑波」に改善食である洋食を搭載し、前述の軍艦と同じコースをたどらせます。その結果、しっかりと洋食を食べたものの中に脚気は発生しなかったという結果が出ました。その後、パンを嫌うものも少なくなかったため、海軍食は、主食をパンから麦飯に変え、脚気患者が激減しました。その際に、よく一緒に食べられていたのカレーだったのです。

兼寛は、この功績から「男爵」の位を受け、人々からは「麦飯男爵」と呼ばれました。

また、「筑波」の航海実験は日本の疫学研究の走りであり、「日本の疫学の父」とも評されています。

高木兼寛は「ビタミンの父」とも呼ばれる│森鴎外とは対立

海軍では、激減した脚気患者でしたが、ドイツの「研究室医学」が主流の陸軍では、伝染病説が主流で、その筆頭が森鴎外(森林太郎)で、兼寛とは対立する立場でした。兼寛もたんぱく質が原因という仮説止まりで、ビタミンの欠乏が脚気の原因であることにはたどり着けませんでした。しかしフンクによりビタミンが、マッカラムにより脚気予防因子ビタミンBが発見されたことで、栄養説が実証されることになったのです。

とはいえ、脚気と食事の関係に着目した兼寛の業績は、ビタミンや栄養学に関する海外の著名な書物において高く評価されており、「ビタミンの父」と呼ばれるようになったのです。

高木兼隆は東京慈恵会医科大学や慈恵医大病院の前身となる成医会を設立

また、高木兼隆は、 イギリス留学を終えた頃、民間医学団体「成医会」を立ち上げました。成医会に医学校の成医会講習所や、国内初の看護学校「看護婦教育所」を併設し、貧しい人びとのための病院である有志共立東京病院を設立します。

成医会講習所は東京慈恵会医科大学、看護婦教育所は慈恵看護専門学校、有志共立東京病院は東京慈恵会医科大学附属病院となり現在に至っています。日本の医療・看護の発展に大いに寄与した偉人でもあるのです。

おわりに

「麦飯男爵」と呼ばれた高木兼寛について詳しく紹介しました。「日本疫学の父」、「ビタミンの父」とも呼ばれ、医学や栄養学の世界に多大な貢献をした偉人なのです。現・東京慈恵会医科大学付属病院では、食事によって病気の予防ができるという教えに基づき、毎日麦ごはんが病院食として提供されています。

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